野菜の気持ち

#1
便利になればなるほど不透明な部分が出来てくる
そこに不信感を抱いてしまうと
この世は楽園ではなくなってしまう

おバカさんになるか
人間皆神様になるかしなければ
楽園にはならない

私はおバカさんにはなれそうにないから
毎日神様や人間以外の生きものたちとともに
平和を祈ることをやめることができない

#2
「野菜の気持ちを感じ取りなさい
野菜が何を心地よいと思っているか
野菜が何を嫌がっているかを感じなさい」

そういう人はきっと
自分自身も快適でありたいと願う人だ
たとえ他人にコントロールされたとしても

野菜の気持ちっていうけど本当かしら
野菜はそんなに人間に期待しているのかしら
自分が快適であることを望むほど
野菜が欲深いとは思えない
人間が自分の理論や想念を投影しているだけなんじゃないのって思う
あえて討論はしないけど

私は人間も野菜も自立しているのが本来の姿だと思う
「野菜のジャングルを作りたい」
昔漠然と思っていたことの真意は
そういうことだったみたい

欲しいものしか存在してほしくないという強欲が
依存心を作り上げる

でもそれは極端に言えば
生き物に対する冒涜なんじゃないかと思う

もし次に畑を借りることができたら

天に伸びるもの
地に伸びるもの
地面で広がるもの
蔓を伸ばすもの
水をこの好むもの

いろいろな性質を持ったものが混生する
雑草並みの繁殖力をもった野菜たちが棲息する場所を作ってみたい

私に何ができるんだろう
始まりの場所を提供し
時に種蒔きをし草刈りをする程度のことしかできないかもしれない
むしろ介入はできるだけしたくない

これまで人から学んだことはいったん脇に置いて
まっさらの状態から頭を働かせて向き合うことを
新しい場所で始められたらいいなと思う

#3
自立とは自分の回路をフルに働かせて存在すること

誰にも管理されず誰も管理しないとき
本来の姿が現れるのではないだろうか

#4
写真の中の私はいつも
不自然に笑っているか仏頂面をしている
(仏頂面ってネガティブな言葉に受け取られがちだけど実は尊い言葉なのかも)
心が生きていない
子供の頃の写真を見ても
よほど仲のよい友達と一緒にいる写真以外はだいたい仏頂面
大人になって愛想笑いをするようになって
その笑顔はいつも醜く歪んでいる

なんか太宰治みたいになってきた。。。。
よく知らんけど

祈りの会でみんなで祈っているときは(ほぼ)バリアをはっていないけど
大抵集団の中にいるときはバリアをはっている
いろんな波長の人がるところは苦手
基本人に合わせるのが苦手なのだ
遠慮し過ぎてどうしたらいいかわからなくなる

私がなにをしても赦してくれる人なんてそういない
だからいつもひとり
さみしくてもひとり
極端にいってしまえば
ひとりでないと生きた心地がしないのだ

このところコミュニティ活動に参加したり
お仕事で新な出会いが会ったり
畑をみんなで運営したりで

遠慮し過ぎて疲れちゃった

遠慮はいらないという人もいるけど
みんながそういう人じゃない
みんなエゴがあるから何かしら思ったり
自分の中にも思いが生まれたり
それを感じとって疲れてしまう
誰のせいでもないけれど

私は私、とは言えない

自分が嫌いなわけじゃない
自分本位になれないだけだ

何があっても私を赦してそばにいてくれる人がいたらいいのに

だからかな最近また
両親に会いたくてしかたない

#5
とりあえず
常に自立した自分のままで存在すること
それができるようになるといいですね

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