源に還りたい

今日はイラストレーションの講座とデッサンの講座を受講した。
イラストはゲンミツである必要がないから

楽しい。
デッサンは観たままを描かなくてはいけない

苦しい。
第一に観る力がない。
見方がわからない。
こことここを比較するとこっちの方が濃いでしょ?そうやって対比して描き分けると立体感が出るんですよ?
と言われても微妙過ぎて気づかない。
濃い味に慣れすぎているせいだろうか、いや、それは味覚の話だけども。
先生が描いている手元を見ていると描けたりするんだけど、それは動きを真似ているからで、対象が観れているわけじゃない。
先生に、陰影を描くのか色を描くのか質問したら、分けないで両方描くと言われた。
そうすると、
色が薄くて暗いところにあるものと、色が濃くて明るいところにあるものは
同じ表現になるんだろうか。
モノクロ写真とカラー写真を見比べたら、何か分かるかな。

こんなに苦しいならやらなきゃいいのに。
とも思う。
単に負けず嫌いが発動してるだけなんじゃ?ちっともわくわくしないもの。
私の好きな写楽も若冲も漫画も、写実的ではない。
もちろんデッサン出来てる人の漫画はリアルで美しいけども。

あーあ。
疲れた。
何をしてもだんだん辛くなる。

その理由は、
私の存在理由がかかっているからだ。
これができないと食べていけない、というような、
生命の危機、みたいな。

わかっているんですよ。
他人に期待するからそうなるってことは。
でも現実に、なにもできない人は生きていけない世界なのだ。
しんどいな。
畑の虫たちは生命活動を維持するだけで役にたっている
人間は、人間社会は、そうはいかない。
世の中で必要とされることをしなきゃならない。
もしくは特殊な才能を開花させるか。
それだって生きるためにやっていたらしんどいことだろう。

頑張ることは苦痛でしかない。
だから生きている事が嫌になってしまった。

生きることをやめても危機感がある。
それがもう嫌で
いっそなにもかもやめて神様に投げ出したくなった。
そもそも私の祈りの原点は、そこなのだ。 
進歩してないな。

人間が神性を顕したら
在るものすべてがそのままで役にたつ存在になるのかな
でも期待するのも疲れてしまった

あらためて
もう大きないのちの流れのなかに還ってしまいたい 
そう思う昨今です。

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