何もしない時間の中で

#1
慎ましくありたい
繊細であるために
もし私がお金持ちになって物を自由に動かせるようになったら
自然の中の細やかな景色が見えなくなってしまうような気がする

#2
今日は午前中美容院に行った
(めちゃショートにしたよ!)
担当がとても明るいおねーさんで
「ほうれい線を無くすには笑うといいんですよー
 ほうれい線は口角が下がるからできる
 笑うと口角が上がるから
 私は怒られてもいつも笑ってる
 今はマスクだから口紅もしないし
 マスクの下で口を動かして体操していても平気だし
 もうマスクは外せない!」
ですって。
かわいらしいですね(´ω`)
ここは安いし親しみやすいのでいつも賑わってばたばたしているけれど
今日は人が働いている姿をみて久しぶりにうきうきした気持ちになった
頭脳労働、デスクワークは見ていてもちっとも面白くないんだ

人が働いている姿を写真にとりたいな

帰りは美容院の近所のパン屋さんでパンを買って
そのまた近所の公園でシーソーに座ってランチした
銀杏の樹の下で
虫が歩いているのがちょっと気になったけど
(だって頭の上に落ちてきそうなんだもの)

この銀杏さんは会社勤めしているときは毎朝出会っていた樹だったけど
何か月かぶりにあった気がしてとても懐かしくて
心の中であいさつした
食べる以外なにもすることがなくぼんやりと落葉を眺めていたら
昨日のデッサンの時間には全く見えなかったディテイルが見えてくる
葉っぱの皺、ごつごつとした枝の影

なんだ、見えるじゃん

ぼんやりとしているときほど素直に浸透し情報が蓄積されていく
見ようとすればするほど見えなくなる
絵を描くときもきっとそうなのだろう
時間制限して心を緊張状態にして頭を絞って
そんな状況は決して快適な状態じゃないだから疲れてしまったのか
普段心に写るような生活をしていればそんな時間も心地よいのかもしれないけれど
今の私はいつも頭を絞っているから逆効果
どう描いたら完成するかかどう描いたら効率的か
そんな計算が働いていたらデッサンはきっとできない
(先生はそういうこともしろとおっしゃるけどね)

写真を撮る時の気持ちも
このところはSNSに上げるために写真を撮っているところがあった
そんなことをしていると
心に写る前に下心(頭)が反応して写真を撮ってしまう
すると心が満たされない
心が豊かにならない
そんな毎日だったから
デッサンしているときも何も見えなかったのかも

見るときはただ見れはよい
書くときはただ書けばよい
そのただ、ということが、なかなか難しい

生きることをやめること
ただ生かされている状態になること
そこで初めてそのままの絵が現れる、のかな

しようとすればするほどInputされる情報は少なくなる
勝手に必要なものを取捨選択してそぎ落としてしまう
急ぐほど最低限の情報しか入ってこなくなる
心の中に落とし込まれるまもなく新しい情報に上書きされていく

昔の人とは写真などなかったから心に景色を焼き付けたんだろう
必ずしも見ながら描くことは無かったかもしれない
心の中の景色を書いた
だから日本の絵はデフォルメされているのかも

絵は心の中で育ってから描いてもいい
文鳥だって描こうと思って描いたことはないけどいつのまにか描いていた
写真はディテイルを確認するために見る程度

やっぱり写真より絵が好きだな
人と関わるのはうるさいこともある
人から習ったりしないで
自分にあったやり方でちまちまやっていくのもいいかもしれない

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