今年を振り返る(まだ9月ですが)

今年はいろんな人に会いました。
自然農を通じて出会った方々、ネットで知った政治家さん、経済学者さん、物理学者さん、等々。

そこで最終的に思ったことは、
「何をするかよりも、何を思ってするかが大事」、ということでした。
前にも思っていたけれど、再認識いたしました。

人間は、自分の都合で主義主張が合わないもの、自分を脅かすもの、収穫を妨げるもの、作物のためにならないものを排除しようとします。
また、自然だからコントロールできない、というどこか受け身の姿勢があります。
いずれも私にもまだあるけれど(消えてゆく姿)、
それは本来の人間のあるべき姿ではない、という違和感があって、でも私と同じように感じている人はいないように思いました。
政治家さん、経済学者さん、それぞれの立場でこの国をよくしようとなさっている方々がいて、立派だとは思うけれど、やはりのめりこめません。
その原因が冒頭の「思い」の違いによるものだと感じています。

誰も殺さない、誰も敵とみない、あらゆる生き物を殺さない、すべてを生かす。
そのような意識の中に、害虫は存在しない、害となる動物もやってこない、と思います。
実際、富士聖地では、あれだけ自然の生き物に囲まれていても、蚊に食われたことすらないのです。
波動が違うからだと思います。
主義主張が違う人間がいて、その人達が世界を動かしているのに、戦うしかないじゃないか。
現象を観るとそうなります。
でも私たち祈り人は、その向こうにある神性の姿を観ます。
だから対立しないでいられるのです。

白光の教義の中に「批判、非難、評価しない、関知しない」というのがあります。
この教義の意味は、何も思わないことじゃない。
誰かと接して、何かが起こって、嫌だとか辛いと思ったとき、どう対応するか。
それを相手のせいにするのではなく、
自分は何を望んでいるのか、望むものを見つめ続けること、
また、そのような現れも、そのような種がお互いの中にあるからなったものと謙虚に捉え、
私たちの天命が完うされますように、と祈ることで、負の連鎖を断ち切り、光を送ること、
そういう意味だと思います。

結局人間の想念波動が世界を作っているのです。
想念を変えなければ、どんなにみんなのために政策を作り施しても、
対立するものがでてきてしまうように思います。
天災も結局は人間の想念が生み出した結末なのです。

想念波動を変えるのが祈りです。
祈りは根本的な病の治療法だと信じます。
根本の根本なのです。

今は協生農法の中に現象世界でできることを模索しようとしています。
本当に虫を殺さず雑草を抜かずに作物を収穫できるのか
縄文時代のように自然からの恵みで生きることができるのか
ぼちぼち取り組んでみます。

スッキリと纏まらず、申し訳ないですが…。

今日も祈れることに感謝いたします。
世界人類が平和でありますように。

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