ちょびっと復活

私は職場に大嫌いな奴がいます。
上司なのですが、
全体を慮るとか長期的に慮ることはせず、
その場逃れの対策と、その場の感情で方針を決め、気に入らない人の話は聞かない。
挨拶は無視、すれ違っても無視。
基本誰に対してもそう。
そのくせ猜疑心が強く、人が自分をどう思っているかに敏感。
二言目にはめんどくさい、というのが口癖の小者である。

同じく職場の、
みんなにかわいいとちやほやされているが
化粧が分厚くてそつがなくて要領よさそうで
でも深く感じたことも考えたことなさそうな
地に足のつかないいまどきの小娘も嫌いですけどね。

このところの体調不良。
今日は遅刻しながらもなんとか出勤。
相変わらず腕は痛いし痺れているし、
仕事しながら
「ああ、私ももう死ぬのかなぁ。
 だったらせめて遺言書くらい書いておかなきゃ。
 死んだあとのことは⚪⚪さんにお願いして」
とか、今思うと逞しく考えていた。

「それにしてもどうしてこんなに体調を崩したんだろう。
 でも病院に行っても仕方ないし。
 私に何かがまとわりついてがんじがらめにされてる感じだから、医者は的はずれなことしかできない。」

ふと、祈りの会の日めくりカレンダーの一頁を思い出した
「心が激しく動揺することは、暴飲暴食するより身体を痛める」

「あ、そうか、私、このところずっと、会社が嫌でどうしようもないほどI が嫌でカリカリしてたから、私の感情が身体を痛めたのかな」

と反省したが

「そんなこと言ったって神様、嫌なものは嫌だよ」

そこまで開き直ってやっと答えがわかった。

「そうだ、私はI を嫌う私を赦していなかった」

随分自己否定の思いは消えたつもりだったけど、まだ習慣の思いで自分を変えよう、抑えようとしてしまう。

「そうだった、ごめんなさい。私は私を愛します!」

そう思ったら体がどんどん楽になっていった。
私にまとわりついていたのは自己否定の想念だった。

残業するほど元気になったので、今日は夕飯を外で戴いた。

嫌いなものは嫌いでいい。
でもそれは相手とは関係のないこと。
相手を変えようとか、相手に意識をむけず、
「あ、私はこういうことをしたりされたりするのが嫌いなんだな」
と自分を見つめていれば、
感情的になったり押さえつけたりしないで済む。

理屈ではわかっていた。
でも今回は体感でわかった。
貴重な体験をありがとう。
地球世界さんありがとう。

体調はボチボチ回復するでしょう。
習慣の思いで行動しないこと。
いつも瑞々しい感性でいよう。
身体は大事。身体壊すほど働くことはない。
会社は適当なところでオサラバします。
どうせIにも嫌われてるから、契約更新は無さそうだし。

私を開放しつくしたらどうなっちゃうのかな!
周りはどうであれ、私は愉しいだろうな(゚∀゚)

こいつにつぶされた人、沢山いる。
そもそも派遣、パートナーという「現場は働く人に責任もたないよ、使い捨てするよ」という仕組みがおかしいんだけど、
こいつもそうやって使えないと判断した人を平気で捨ててきた。
内心怯えながらそんな自分に見て見ぬふりをするところが大嫌いだが、
みんなのためには、こいつがきれいな心になることがいいのであって、
私もきれいになって穢れに強くなるのがいいのであって
結局のところ、やっぱり祈るしかないのかな、と思います。
もとはみんなきれいなみたまなんだからね。

 

前の記事

平和の国を作ろう