主と従

メダカの水槽の水と壁が濁っていたので、掃除をした。
メダカにバケツにお引っ越し願い、水槽の中を洗う。
水替えのとき全部の水を変えると水中の微生物がいなくなり水質も変わってしまうとのことなので、
水槽に新しい水を入れつつ、仮の宿りのバケツにとっておいた水を入れて彼らを戻す。
とはいえほとんど新しい水なので、メダカ大丈夫かなぁ、と思ったら、
『お前次第だ』
とピピッときた。
あ、そうか、うちの子達は大丈夫だ、と思い直し、安心した。

その後本日一度目のお食事。
全粒粉の食パンにレタスとトマトのサラダ、白菜とピーマンと椎茸と小エビのスープ、前日の残り物のホウレン草とソーセージの炒め物、茄子とピーマンの味噌炒めをいただく。

私たちは分かれている以上対面しあっている。
食事はいただく行為だと思いがちだけれど、私たちが感謝することで彼らの命が報われる。
食事中も私たちは交流しあっている。

そう思ったときふと、先程メダカのうちの掃除中にひらめいた声の元がわかったような気がした。
あれはメダカの声、動物の神様の声だ。
私はメダカの飼い主のつもりだったけど、そうじゃなかった。
彼らには動物の神様がいる。
その神様を蔑ろにして、私は傲慢にも主だと名のっていた。

どちらか主か従かわかったものではない。
いや、どちらも主でも従でもないのだ。
勘違いも甚だしくて、恥ずかしい気持ちになった。
人間てやっぱり、無自覚で幼い。

神性で向き合う時、私たちはすべてのいのち(神々様)と対等に交流できる。
みんなが自分の神性を認めた時、その時地球はきっと完全な姿を取り戻す。
どうか後10年のうちに成就できますように。

前の記事

May peace prevail on earth