選択と決意
今日はいくつか魂が揺さぶられることがあった
今日も東京で、世界の安寧と人々の幸せのために祈りの行事が行われると知った
行事に参加するのはごく一部の方のようだけれど
自分のことは脇に置いて人を思い人に尽くすその姿が
神々しくて自然と敬意が湧いてくる
自分の肉体生活にとらわれず
自分は何者なのか、その答えを求め続けること
自分を表現しようと努めること
ささやかなことでも人を思い人に捧げること
それがこの世界で魂を磨くやり方なのだと思う
私財を投げうって自分は苦しんででも人に提供する
そういった強引なやり方ではなく
自分を損なわずその上で人に尽くす
そういう方々を沢山見てきて実感していることだ
自分の快適なことしかしなくて何も魂が揺さぶられることがない毎日は
退屈だと思う
TVやコンピュータを通してでも、世界のこと、生き物たちのことを知ると
祈り心が湧いてくる
そうすると
自分がここで働く(=人に尽くす)ために肉体も大切にしようと思う
自分のことをするにしても
何のためにするか、という目的を意識することが大切なのだ
料理をできるだけ自分で作るのも、生活のためではなく
働くために自分の肉体を生かすことなのだ
この長期連休、私は祈ること以外、自分のことしかしていなかった
というか何をするにも祈り心を持つことはできるのに
とても浅はかだった
ほんの些細な事でも、それに繋がるものや人のことを大きく深く思えることは
魂が大きく開いたということだ
けれど容易に魂を閉ざすこともできてしまう
だからひとりでいてはだめなのだ
令和という時代が天皇でなくとも
すべての人が大きく大きく人や国の平和を祈念する時代になりますように
冒頭に戻るが、今日魂を揺さぶられたこと
自分の選択を意識させられたこと
「もし不老不死の薬が目の前にあったとき、それを口にするだろうか」
私は即、否だ
老死は自分の魂の飛躍のために必要な体験であり
地球のために必要な新陳代謝なのだと思う
仮に不老不死になったとして
永遠にこの世界、ひとつの星、肉体に縛られるなんて、考えたくない
それを口にする人は、どういった状況なのかはわからないけれど(人に薦められて、云々)
その時何を思うのだろう
少なくとも自分のいのちの永遠、別の世界の存在をご存じないに違いない
どうかすべての御魂に神性への扉が開かれますように